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2013年11月 8日

「ベーシックインカム(生活基本金)と地域通貨」

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「ちゃとした暮らし」について、これまでブログ6回分書いてきました。

第一回 「ちゃんとしたもの」に囲まれた暮らし。
第二回 「農的暮らしのグラウンドデザイン」
第三回 「まちぐるみでの自給自足」
第四回 「衣食インフラ」
第五回 「住環境インフラ」 - 家と水とエネルギー
第六回 「物々交換市」とシェア

今回が7回目で、これでひとまず終わりです。

あんまりくどくどと書いても要点がぼやけてしまうので、
とりあえずいろんな前提条件を端折って書いてみました。

自分たちでやれることを、ただ自分たちで楽しむだけなら、
それは気の合う仲間うちで、どこか山の中のいい場所を見つけて、
そこで自分たちの理想を追って、楽しい暮らしをしていればいいのだけれど。

別に隠遁生活がしたいわけじゃなくて、
もっと何というか、オープンで、新たな生活スタイルとして伝播していくような、
社会性のあるムーブメントにできないかと思うのです。

 
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何故そうなのかと考えると、
やっぱり世の中がちょっとおかしな方向に傾き始めたからでしょうか。

資本主義経済というのは、
泳ぎ続けないと死んでしまうマグロみたいなものだから、
お金の流れが滞ると途端に破綻してしまう。
とにかく大量にモノを製造して、大量に消費して、大量に廃棄してもらわないと、
成り立っていかない構造です。

でも、そんなこといつまでも続けられない。
社会のいたるところでひずみが起きています。
そんな社会の歯車となっているから、みな心身ともに病んでいます。
もういい加減限界です。

しかし、それでもやめられないのが、今の大企業であり政府の姿です。
もう、モラルとか子どもの将来の健康被害とか、
そんなものを無視してでも、自分の生命維持装置だけははずせない。
きっと、死んだって手放さない覚悟ができているんじゃないかと思います。


そんなものに、いつまでもつきあっていられないでしょ。


エコや自然食品にお金を使うのは、いい趣味かもしれませんが、
かたや「生活のために」といって、消費経済にしっかり加担しておきながら、
かたや「足るを知る生活」と言ってみたところで、
まったくどうしようもない。


以前ブログにも書きましたが、
私にとっては、「生活を言い訳にしない」という言葉が唯一の踏み絵というか、
譲れない信条だと思っています。

 
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それでも、「生活のために必要な最低限の現金」。

その役割を担えるのが、
「ベーシックインカム(生活基本金)」じゃないかと考えます。

ベーシックインカムというのは、
「政府がすべての国民に対して、最低限の生活に必要な額を無条件に給付する」
という制度です。

今の日本のように、
大企業には便宜を図り、一般市民からは搾取するような状況じゃ、
そんなことは想像もできないけれど、
アメリカでは、1972年の大統領選挙の際にベーシックインカムが争点の一つとなりました。
そしてスイスでは、
今月にもベーシックインカム導入に向けた国民投票が実施されます。

もちろん、ベーシックインカムには、賛否両論様々な意見があります。

しかし、ベーシックインカムが導入されれば、
少なくとも、「生活のために」という言い訳を誰もしなくて済む。
それだけでも画期的なことじゃないかと思います。


スイスの場合は、一人につき毎月28万円。
でも、自給自足の農的暮らしをベースにして、
村(コミュニティ)単位での分かちあいと共有の仕組みを取り入れるなら、
どうしても必要な現金は、毎月5万円もあれば充分ではないかと考えます。

一人につき5万円は、赤ちゃんでも子どもでも5万円なので、
家族が増えるだけ生活基本金も増えます。

住民同士で生産する分野(生活に必須の物品)のバランスを考え、
余剰をうまく分かち合い、
物々交換市で基本的な衣と食が扱えるようになれば、
現金の必要性は限りなく小さくなります。

本来的に考えれば、
生きるために必要な財源は自然が与えてくれているのだから、
それに少し手を加えることで、
今よりもっと心地よい暮らしができるようになる。

そういう発想から、
ベーシックインカムの実現可能性を考えればいいのじゃないかと思います。

 

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しかし、ベーシックインカムといっても、
「働かなくてお金がもらえるなら、こんなうまい話はないぜ。」
あれも買いたいし、これも買いたいし、・・・みたいに、
誰もが古い消費経済の観念を引きずったままじゃどうしようもないですけどね。


だから、国全体に一律に導入するのではなく、
例えば、気心の知れた小さな村(コミュニティ)単位での導入です。

そして、この生活基本金は「地域通貨」にするのがいい。

「地域通貨」というのも、日本じゃ言葉ばかりが先行していて、
実態はお買物割引券のようなものがほとんどのようです。
現行の貨幣経済を前提とするから、
結局は消費振興のためのツールにならざるをえないのです。


 
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例えば、「結(ゆい)」という仕組みは、
田植えや屋根葺きなど、生活のためにみんなで行う相互扶助的な共同作業です。
お互い様ですから、これには貨幣が伴いません。

それでも、「労働力の貸し借り」のような概念があって、
他人に助けられれば、自分もそれに応じて返すことの義務感が伴ったりします。

一番楽なのは、ごく親しい間柄での「分ける、あげる、手伝う、もらう」。
そういう、信頼の上に立った思いやりの関係です。
何の見返りも求めない、本当はそれが理想です。

でも現実的には、お年寄りや身体が思うように動かせない人たちもいて、
一方的にもらってばかりで、他に何もしてあげられない場合もあります。

例えば、物々交換市で、
欲しいものはあるけれど、提供できるものがない。
手伝ってもらいたい仕事があるけれど、
自分は思うように人の手助けができない。

そういう時に使える「地域通貨」があればいいと思うのです。

水道光熱費や公共交通機関、医療費、教育費など、
ここで暮らすために必要なことは、
すべてこの「地域通貨」だけでまかなえるようにします。

この「地域通貨」は、
貯めたり、現行貨幣に換金したりすることはできないけれど、
ここで基本的な生活を維持するためには、必要充分な価値を持ちます。


  
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それでも、消費経済とのつながりが完全に断ち切れるものではありません。
例えば、自分たちで作れない原料や、必要な機械などを調達するには、
現行貨幣を使って外部から仕入れる必要があります。

また、村(コミュニティ)を離れて遠出しようと思えば、
やっぱり現金が必要となります。

だから、もちろん必要なお金を得るために、
各人が村(コミュニティ)外との経済活動を行うのは、まったく自由です。
ここで手作りされた安心できる食品や加工品、衣類は、
それだけで高い付加価値を有するものに違いありません。

要は、村(コミュニティ)内での生活が円滑に維持できればいいのですから。

 

今、持続不可能な社会をまっしぐらに進む日本では、
こんな話はまるで夢物語に過ぎません。

でも、これから増え続ける過疎高齢化の捨てられたような小さな農村からなら、
こういった試みも、あながち非現実な話ではないように思います。
いやむしろ、こういうアナーキーな施策こそ、
日本の起死回生を図る有意義なプロジェクトになるのではないでしょうか。


さて、
どこか本気で「やってみよう」という先進的な地方自治体はないですかね。

ま、なくても自分でやれるところからやっていこうとは思うのだけれど。