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2013年10月31日

「住環境インフラ」 - 家と水とエネルギー

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いま蕎麦畑が可憐な白の花盛りです。
蒔く時期が遅かったので、霜が降りる前に何とか実をつけなくっちゃと、
もう背丈はいいから、急いで花を咲かせているようです。

さて、食う寝る処に住む処。

都会の住宅事情じゃ、アパートやマンションの賃貸にしたってすごく高い。
土地を買って家を建てたりしようものなら、
そのためにローンを組んで、元利の返済に一生を棒に振らなくちゃいけない。

その点、過疎の田舎なら、
ちょっと修理をすれば使える、しゃれた古民家や空き家がたくさんあるし、
誰も使わなくなった安い土地に、自分で家を建てることだってできる。

住環境というのは、もちろん家だけの話じゃなくて、

家から一歩出れば、庭があり、井戸や洗い場があり、
家のまわりには、物置き、納屋、作業小屋、家畜小屋。
近くの畑、果樹、遠くの畑、田圃。
裏山、谷川、放牧場、など、いくらでも広げることができます。

水だって、わざわざ塩素入りの上水道にお金を払わなくても、
井戸や湧き水や山水が使えたりする。
薪や炭を利用し、ちょっとした自然エネルギーを自分たちで作り出せば、
高いガスや電気もほとんど使わなくて済む。

そんな風に、より快適で持続可能な生活空間をイメージすれば、
どんどん可能性を広げていくことができます。

 
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だいたい、食う寝る処に住む処。
自分のことなのに、いったい自分では何にも作らない、何にも作れない。
何から何まで、他人まかせにして、結局お金で済ませる。
それは都会では当たり前のことだけれど、
ちょっと冷静に考えると、何だか哀れな姿に思えてきます。

「お金なんか」と思いながら、
「でも、お金がないと暮らせない」から、
と自分に言い聞かせ、日々お金を稼いで、日々それを消費する。
結局、死ぬまでお金から逃れられない「お金の奴隷的生活」に陥ってしまう。
そうして、そんなストレスを解消するのもお金だからね。

そんな毎日を繰り返しているから、
どこで自分の食べるものが作られているのやら、何から作られているのやら、
どんどん生産現場や、物事の道理や人の気持が見えなく、わからなくなってしまう。

 
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しかしまぁ、
だからといって、何から何まで自分でやれるわけじゃありません。

それでもせめて、基本的な生活インフラに関することだけは、
どういう理屈で、何を使えばそれがそんな風にできるのかは知っておきたいし、
いざという時には、自分でそれがそんな風にできる技術やノウハウは、
ちゃんと身につけておきたいと思うのです。


じゃ、お金を稼いで消費するだけの暮らしじゃなくて、
できるだけお金を使わないで、自然にあるものを循環させる暮らし、
そのための住環境インフラを整えるには、いったい何が必要なんだろう。


■住環境に関する技術とノウハウ

やっぱり、家を作ったり、家具を作ったり、修理をしたりするのには、
・大工、左官の技術が不可欠です。

もちろん、それ以前に切り出した丸太の扱いや製材の仕方、素材の知識など、
覚えなくちゃいけないことが限りなくあり、どれもこれも奥が深い。
また、家具や食器を作ったりするには、木工や陶芸の技術も必要になる。

・山林や水利の知識とノウハウ、
木を切り出したり、植樹したり、山林をどう扱うか、水をどこからどう引いてくるか、
それはとても重要な事だけれど、あまりにも何も知らなさすぎる。

・エネルギー設備と技術
 (薪、炭、太陽、風、水、余熱、雨水、排泄物、他)
薪や炭(炭焼きの技術)を使った、煮炊き、暖房のための窯やオーブン、ストーブ。
太陽、風、水を使った自家発電。
余熱や雨水、排泄物(コンポストトイレ等)の循環の仕組み。


■生活インフラ特定物品をつくるための設備と場所

もちろん、一人でやるよりみんなでやる方が楽しい。
何かを作るのだって、場所も必要だし、工具や何やかや自分で全部揃えるのはたいへん。
だから、場所と機械や道具は、みんなでシェアするのがいい。
その中で、技術やノウハウだって互いに共有し合うことができる。

・食品加工場では、搾油機、製粉機や大きな釜、なべ等。
・衣類生産場では、糸紡ぎ、織機やミシン、染用道具等。
・木材加工場では、製材機、その他木工用工具一式。
・炭焼き窯、陶器窯、等。
・その他共同作業場

 
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そういったものを、
これから創る住環境の中にしっかり組み込んでいきたいと思うけれど、
どれもこれも、実際に自分の環境で作って、試してみないとわからない。
そう考えると、いくら時間があっても足りない。

思うように木を植えたとしても、それが育つまでには10年、20年とかかります。
自然農の田畑だって、10年、20年でようやくいい状態になる。

もっと早くこれに気づいてやっていればよかった。

よく、定年退職してから田舎で悠々自適などという人もいますが、
馬鹿を言っちゃいけない。
気力も体力も衰えてから、新築のオール電化の家で、
年金頼みで田舎暮らしを満喫するなど、愚の骨頂にしか思えません。

せめて身体がしゃんと動く30代の頃から、そういう暮らしを始めたかった。

しかしまぁ、人生に遅すぎることはありません。
早くても遅くても、気づいた時が自分のスタート地点です。
今からでもやれることを、やれるだけやっていこうと思っています。(・・・続く)

2013年10月27日

「衣食インフラ」

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ここのところずっと偏頭痛が取れなくて、
気圧の変化のせいかなぁと思っていたのですが、
よくわかりません。

でも、台風も過ぎ去ってようやく秋の空が戻ってきました。
今日一日おひさまが照れば、田圃も稲もいい具合に乾くと思います。
明日からまた楽しい稲刈り。


ところで、生活の基本はやっぱり「衣食住」です。
そのうちでも、日々必要な「衣食」の自給を考えます。


「食べること」でいえば、
お米と味噌、それに季節の野菜があれば、だいたい食べていくことができます。
もちろん贅沢を言えばきりがないですが、
自分で作ったお米や味噌や、採れたての野菜が、
貧しい食事かといえば、決してそんなことはないわけで、
本当は、それが一番おいしくて、贅沢な食べ物に違いありません。

ズブズブの都市生活から田舎に越してきた当初は、
時折、ジャンクな食べ物や、ファーストフードが衝動的に食べたくなりました。
でも、何度かそういうことがあって、
実際に食べてみると、どうも以前ほどおいしくない。
というか、食後感がすごく悪いということに気づいてしまいます。
するとそのうちに、もう本当に要らなくなってしまいます。

別に私はベジタリアンじゃないですが、
実際のところ、肉や魚だって、どうしても毎日食べたいというわけじゃない。

だったら、自給農で充分じゃないかと思うのです。

もちろん何から何まで、
食べるもの全部を自分で作ったり、加工したり、はすごくたいへんだけれど、
自分でできることはできるだけ自分でやるようにすれば、
「自給農+アルファ」で、
普通に楽しく暮らしていけます。


そこでもう一歩踏み込んで、
自分でできることには限りがあるけれど、
例えば、自分で作れない作物や加工品を、他の人が作ってくれたりすれば、
お互いに余剰を分かち合ったりすることができます。

そうすると、日々の食事だって、
そうしたいと思えば、
もっと豊かで、もっとバラエティに富むものにすることができます。


  
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じゃ、そういう生活をするために最低限必要な、
「生活インフラ特定物品」としては、
どういったものがあればいいんだろうと考えてみました。


■食料品
まず、基本調味料のさしすせそ。
*砂糖
*塩
*酢
*醤油
*味噌
味噌は誰でも簡単に作れます。
塩や酢や醤油も作れないことはないけれど、
砂糖も甜菜かサトウキビが栽培できれば何とかなるもしれないけれど、
やっぱりちょっと手間がかかるから、専門に作ってくれる人がいればいい。

*米、麦(大麦、小麦、ライ麦)、大豆
田畑があれば、だれでも作れるけれど、
作れない人もいるし、量が必要なこともあるので、
こういう基本穀物をたくさん作ってくれる人がいればいい。
また、シェアできる粉挽き機等があればいい。

*油
これもナタネやヒマワリやオリーブなんかをたくさん栽培して、
これを専門的に絞ってくれる人がいればうれしいですね。
また、シェアできる搾油機等もあればいい。

*肉と乳(牛、豚、羊、ニワトリ)
まぁ、羊や豚やニワトリぐらい自分で飼えばいいのだけれど。
土地とか餌の確保とか、それはそれで誰もができることじゃないので、
やっぱり専門的にやってくれる人がいるとうれしい。


と、基本的にはこれぐらいなもので十分じゃないかな。


これらの作物は、もちろん無肥料、無農薬で作ったもの。
加工品も、添加物なしの昔ながらのシンプルな製法で作られたもの。
これだけで、もう最高でしょ。


でも、誰かがやってくれるなら、
作り手の顔が見える、
安心、安全な食のバリエーションは、たくさんあればあるほど楽しい。


*麹
昔はどこのまちにも麹屋がありました。
味噌、醤油、酒等、発酵食品の基本。

*乳製品や肉加工品
バターやチーズや、ハムやソーセージ等

*豆腐や揚げ
まぁ、自分で作ればいいのだけれど。

*くだもの、茶、ハーブ、香辛料
これも自分で果樹や茶葉、ハーブなんかは育てればいいのだけれど。
熱帯系の香辛料など気候的に育たないものは仕方ありませんが。

*ハチミツ
餌に砂糖水なんかを与えていない、日本ミツバチの純粋なハチミツ。
もちろん、自分で養蜂すればいいんだけれど。

*酒、ワイン等、アルコール類
自分で作って楽しめばいいわけだけれど。

あと、
海が近ければ魚介類を獲ってくることもできますが、
これだけ海が汚染されてしまうと、食べるのにちょっと腰が引けてしまいます。
そして何よりも、日本人の基本、昆布とかつお節。
これには正直、困ってしまいます。

だからといって自分で作り出すこともできないため、
何か代替物を探すか、仕方なく買い求めるしかありません。

その他、
パン屋や製麺屋、乾物屋、漬物屋などのお店や加工品店が増えれば、
それはそれでうれしいですね。


■衣料(着るもの)
現在では、衣料の自給率が限りなくゼロ%です。

ガンジーみたいに、糸車から始めるのは素晴らしいけれど、
いきなりそこからのスタートが無理だとすれば、
せめて戦前・戦中の日本がそうであったように、
裁縫の基本技能さえ身に付ければ、布と針(ミシン)と糸さえあれば何とかなる。

*麻、木綿、絹
将来的な完全自給のために、
衣服の原料となる麻、木綿、絹等の栽培を行う。

*織りと染め、製縫
布に仕上げるための技術、衣服を仕立てるための技術。
織り機など、シェアできる機械があればいい。

 

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食べるものだって、着るものだって、
本来は、機能的でシンプルなものが少しあればいいはずです。

あと、それにどんな彩りを添えるか、どうやって着こなすか、
それは各自それぞれの好みや個性で自由にやればいいのだから。


ほら、これくらいの事なら、
持続可能な心地よい暮らしの地域(まち)づくりなんて、
結構すぐにでも実現できちゃうんじゃないかという気がします。

いや、かなりしてきました。(・・・続く)

2013年10月25日

「まちぐるみでの自給自足」

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今日は稲刈りしてないけど。

日々の暮らしで「ちゃんとしたもの」を食べたいと思えば、
やっぱり自分で作るしかない。

薬品漬けの劣悪な環境下で、製品として量産される牛や豚や鶏。
強力な殺虫剤と由来を問わない畜糞や化成肥料で、均質に促成栽培される野菜。
化学調味料、人工甘味料、安定剤、保存料等、カタカナだらけの加工食品。

そんなことわかってはいても、
やっぱり店頭ではそんなものに高いお金を払って買わなくちゃいけない。
そういう暮らしを、私たちはいつまで続けるのだろう。

「仕方ない」というのは、本当に「仕方ない」ことなのか。

望んでか、止むなくなのかは、関係なくて、
高くても買ってくれる消費者がいるから、化石燃料を使って遠くまで運ぶ流通があり、
たくさん売れるとたくさん儲かるから、
ぎりぎりまでコストを削減し競争力をつけ、より大量に作ろうとする生産者がいる。

曲がったきゅうりや虫食いのキャベツでも味は変わらないと思っても、
店頭じゃ、やっぱり粒が揃ってきれいな野菜を選んでしまう哀れな自分がいる。
もうその時点で、この悪循環にしっかり加担しているんだよね。


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だから、こういう悪循環はきっぱりと断ちきるべきじゃないかと思うのです。
まず、気づいた自分から。

今日も、政府が減反政策の見直しを検討しているってニュースがありました。
「TPPで国際競争が激しくなるから、これまでの価格維持政策を見直して、
コメのコスト削減や競争力の強化、大型農家への農地集約を狙う」のだそうです。

いよいよ、モンサントの遺伝子組換えイネなんかが入ってくるのでしょうか。
本当に馬鹿ですよね。

農地集約されそうな休耕田なんかは、そのうち政府に強制収用されないうちに、
みんなで共同して所有権移転しておいた方がいいのかもしれません。


作っては捨て、捨てては作り、
使っても使わなくても、どんどん捨てて、どんどん新しいものを作る。
右肩上がりが至上命題の消費経済です。

長年こんなものに付き合わされてきたから、
今のこの、廃棄物と環境汚染と人心の疲弊があるわけで、
そりゃ確かに、そんな暮らしがキラキラとちょっと素敵に見えた時代もありました。
でも、もういいでしょ。


微力ながらも、そんな消費社会を増長させてきた自らの過去の生き様を恥じて、
これからは、もっとまっとうな生き方をしよう。
廃棄物や自然環境にもっと気を配って、好循環の持続可能な暮らしに変えていこう。

人生の半ばを過ぎて、どう考えても残りの方が短くなった今、
理想とか、きれいごととかじゃなく、シンプルにそういう生命でありたいと思うわけです。

 
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これ以上、消費経済を増長させないために私たちができることは、簡単です。

ただ、お金を使わなきゃいいのです。

これはものすごい威力ですよ。
みんなが一斉に消費行動をストップすれば、こんな国あっという間に転覆しちゃいます。
あこぎな銀行だって、預金準備率なんて僅か1.3%だから、
みんなが預金しているお金を全額引き出せば、片っ端から潰れます。

目新しい電化製品とか、今年の流行ファッションとか、
アプリとかバージョンアップとか、グルメ食べ歩きとか、健康食品だとか、
TVや雑誌やインターネットや店先で、日々実に巧みに誘惑されますが、
そこをグッと我慢して、新たにモノを買わなきゃいいのです。


その点、都会は不利ですね。
家賃は高いし、田畑がないから、毎日食べるものにもいちいちお金がかかる。
ストレスが溜まるから、稼いだお金はあるだけ浪費する。
田舎はいいですよ。
空き家はあるし、手がつけられなくなった里山や耕作放棄地がたくさんある。
しかも都合がいいことに、お金を使いたくてもろくなお店がない。

ただ、最低限の水道光熱費や健康保険料は今のところどうしようもない。
それに、田舎は車がないと移動できないから、やたらとガソリン代がかかる。
小さな子どもがいたら、もちろんもっと何やかやと現金が必要になってくる。

そんなことだから、お金をまったく使わない生活は急にはできないけれど、
田舎なら、さほど無理をしなくても、最低限の現金さえあれば、
「ちゃんとしたもの」に囲まれた心地よい暮らし、
を実現することは可能だと思うのです。


「生活のために現金を必要としない環境」
各自が自立して重なり合う、「まちぐるみでの自給自足(共給共足)」。


お金を使わないということは、お金のやり取りが必要ないわけだから、
誰かに何かを手助けしてもらったり、何かを借りたりする時も対価は不要だし、
お互いに助けたり助けられたりで、いちいち見返りなんか求めない。
困った時にはいつでも誰かが手を差し伸べてくれる。

そういう安心感のある地域(まち)が創造できればいいな、と思うのです。

それを実現するための条件として、
 1.自給農
 2.生活インフラ特定物品をつくる人
 3.生活にともなう仕事とノウハウの共有

といった、
自給ベースに立った生活インフラの共同整備が必要になってきます。(・・・続く)

2013年10月23日

「農的暮らしのグラウンドデザイン」

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稲刈りをしていると、時々誰かが手伝いに来てくれます。
一人でいろいろと物思いに耽りながらの稲刈りも、それはそれで楽しいのだけれど、
気心の知れた仲間と、ぽつりぽつり話しながら手作業をこなすのも、
それはちょっと格別な時間です。

台風が来る前に、腰砕けのコシヒカリと早生のモチ米だけは干してしまいたかったのですが、
雨が降り始めた昼過ぎになって、ようやく全部干し終えることができました。
シトシト降る雨が気持ちよかった。

今週は台風の影響で後はずっと雨みたいだから、稲刈りはちょっとひと休み。
いい具合に熟れた太郎のキヌムスメ。
刈ってしまうのが惜しいくらい、葉や茎がきれいな黄緑色に染まっています。

 
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パーマカルチャーって、ちょっと変な宗教かなんかだと勝手に思っていて、
これまであまり近づかないでいたのだけれど、
この間、ビル・モリソン著「パーマカルチャー - 農的暮らしの永久デザイン」を
読んでみました。

それはとてもまっとうな考え方で、たいへんよくわかる内容でした。

つまり、自然から得られるもの(衣食住に関わる第一次生産業)を、
利潤追求のための商品とみなすことで、いろんな問題が起こってきました。
生産と流通の規模が拡大することによって、
膨大なエネルギーが消費され、原発が建ち、再生不能な石油系製品が溢れ、
排水や廃棄物で土地や山林、河川、海は回復不能なほど荒廃し、
絶えず新たな化学物質によって、自然も人も汚染され続けてきました。

そう、1960年代にビル・モリソンがオーストラリアで市民運動をしていた時代と、
半世紀が過ぎた今も、世界は何にも変わっちゃいないのです。

ビル・モリソンには、ある日わかってしまいました。
「もう反対運動のためにムダな時間を費やすことはしたくない。」

それを機に、
自分の家から、庭から、畑から、
まず自分から、自然と共存する新たな暮らしをスタートさせることにしました。


「起こっている現象に手を出すのではなく、根本を問い直す在り方。」
自然農と同じ捉え方です。


そのノウハウの集大成が「パーマカルチャー」という言葉になっています。
アジアの農村の暮らしからヒントを得たということで、
本の中には、あの福岡さんの粘土団子が紹介されたりしています。


アジアに生まれてよかったですね。
答えは足元にありました。
日本でもちょっと昔の農民は、とてもパーマカルチャー的な暮らしぶりでした。

***
まず私たちがエネルギーを浪費する生活を変えること。
そこから共存できる自然の回復をはかる。
そのために必要な総合的な知識と暮らしの智慧を体系化し、共有する。
***
食べるもの、着るもの、住むところ、エネルギー。
それらの自給体制を、できるところから整えていく。
***
石油系製品を極力使わないようにする。
新たな消費を控え、不要物の再利用に配慮する。
シェアできるものはシェアし、余剰は分かちあう。
***


自分の家から、庭から、田畑から、
といっても、何から何まで自分たちだけでまかなうのはちょっと無理だし、
自給自足を基本的な生活スタイルとして、
自律した人たちが、互いに心地よく暮らせる持続可能な地域社会がいい。

仲間がたくさんいればシェアもできるし、対話もできるし、楽しい。

「農的暮らしのグラウンドデザイン」として、
そういう地域社会を実現するためのアイデアを、ちょっと練っています。(・・・続く)

2013年10月22日

「ちゃんとしたもの」に囲まれた暮らし。

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毎日稲刈りをしながら、いろんな事を考えます。

ウチの田畑は自然農でやっています。
お米も「無肥料・無農薬・不耕起」で作っています。
何も足さず、何も引かず、できる限り自然のめぐりにまかせた農です。

何故、そんなやり方なのかと言われても、
何とか農法がいいとか、どんな肥料がきくとか、そういう問題じゃなくて、
もう、それ以外のやり方は考えられないのです。

自然農で作ったお米や野菜がおいしいとか、身体にいいとか、
本当はそんなこともどうでもよくて、
ただ、食べるなら「ちゃんとしたもの」を食べたいと思うだけです。

だからといって、自然食品店やネット通販で、
市価の三倍も四倍もするような無農薬野菜やお米や食材を、
わざわざ買ってまで食べたいとも思わない。

それはちょっと違うなぁ、と思うのです。
だから、ビーガンやがちがちのマクロビの人たちとは、
ちょっとお友だちにはなれないかもしれません。

確かに肉や魚は、もう若くはないから、そんなにがつがつ食べなくてもよくなりました。
でも、何でも食べたいし、食べる時に陰とか陽とか考えたくない。
自分の身体のバランスぐらい自分で考えられる。

ただ、できるだけ「ちゃんとしたもの」を食べたいとは思うのです。

じゃ、何が「ちゃんと」しているのか、
まぁ、ちゃんとしたものは、ほとんど流通なんかにはのりません。
だいたい不揃いでひとつひとつ大きさも形も違うのが自然の摂理なのに、
規格サイズのものを、大量に作らないと、流通にはのらない。
しかも生鮮だって簡単に腐るようじゃ商売にならない。

生産現場だって、工場化しないとロスが出て仕方がないから、
農業だって畜産だって、加工品だって、生産性向上のためには、
消毒もするし、薬品も使うし、添加物だって保存料だって、何でもぶちこむ。
人間性も自然環境も、コストダウンのためには何だって犠牲にする。

つまり、流通を経てちゃんとしたお店でお金で買えるようなものは、
今やちゃんとしたものなんかひとつもないのです。

いや、もちろん良心的な農業者や畜産業者や加工食品会社もあるでしょう。
何でも十把一絡げにものを言っちゃいけません。

でも、言いたいのは、もう何だかうんざりだということ。

 
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身体にいいものだけを食べて長生きしたいとか、これっぽっちも思わないけれど、
本来、シンプルでただ自然のままでよかったものが、
大量生産、大量消費の生産工場や流通業者の都合のために、
米や野菜や肉など、もはや生き物じゃなくただの「商品(モノ)」として扱われていて、
食べる側には必要のない、身体に悪そうなものがたくさん付加されてしまっていて、
ただの「消費者」におとしめられた私たちには、
そんなものの中から少しはましなものを選んで「お金」で買う自由しか残されていない。

それが付加されていないような、できるだけシンプルで自然に近いものが欲しいなら、
それはもっとたくさんの「お金」を払って買うしかない。

そんなふうに日常的に選択肢のない買い物を強いられていて、、
少しはましなものを買うためには、もっと働いて稼がなきゃ、みたいな。
でも、何らかの災害で流通機能がマヒすれば、都市生活者はどうしようもありません。
そのまま野垂れ死にですね。

だから私はもう、そういうループから、できるだけ遠ざかりたい、というか、
まず自分たちから、ちゃんとすべきものをちゃんとして暮らさなきゃと思うのです。


買ったもので暮らす消費生活ではなく、
種を蒔いて作り、できたものを分かち合う暮らしへ。


食べるものは、自分たちでちゃんと作る。
または、信頼できる人がちゃんと作ったものをお互いで分かち合う。

「ちゃんとしたもの」に囲まれた暮らしをするために必要な環境は、
不思議なことに、人の住まなくなった過疎高齢化の田舎にすべてそろっています。

太陽、風、水、山、海、田、畑、人と動植物が共存できる取り残された自然。

 
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食べるものは、生きていくための基本だけれど、
もちろん食べるものだけじゃなくて、着るもの、住むところ、
人と人との関係、生活環境、自治、社会の在り方、
そういうもの全て含めて、
嘘やまがいものじゃなく、お金や肩書きや、見栄や損得勘定で動くのでもない、
もっとまっとうでシンプルな、「ちゃんとしたもの」に囲まれた暮らし。

そんな暮らしの在り方を考えています。(・・・続く)

2013年10月19日

楽しい稲刈り

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16日から稲刈りをやっています。
腰砕けのコシヒカリと、早稲のモチ米を早く刈ってしまいたかった。
刈ってスペースを空けながら、なだら(稲架)を組みながら、延長しながらの稲刈りです。

しかし、稲刈りは本当に楽しいなぁ。
真夏の炎天下の草取りの日々なんか、もう記憶の彼方に去ってしまってるから、
後は何も考えず、黄金色の実りをザクッと刈って干すだけです。

秋の穏やかな日和の下で、
啄木鳥のこんこんのリズムを聞きながら、
熟した稲を刈っては束ね、
四五本の藁できつくしばって、
積み重なる稲穂を抱える時の心地よい重さ。
何という至福の時間。

早く刈ってしまわなくちゃと思いながら、
やがて全部刈り終わる時が来るのがちょっと惜しい。
1年中が稲刈りでも私はいいですよ。

 
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もう、水は完全に落としちゃってるのですが、
ここに来て雨が多いので、畝はやや湿った感じです。
濡れるからと、横着して中腰でやってると、
うっかり膝を痛めてしまうから要注意です。

順番としては、
まず、次郎のコシヒカリと早稲のモチ米を刈ってしまって、
それから太郎に上がってキヌムスメ。
そうこうするうちに晩稲のミドリも登熟してくるので、
最後にそのミドリ米と黒米を刈って終了ですね。

ミドリが干し終わる頃には、
最初のコシヒカリがもう乾いちゃってるかもしれないですね。
あまり雨が降らないことを祈ります。

 
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そうそう、今年は米の裏作に麦を蒔くつもりです。
なので、太郎に上がる前に、刈った次郎にさっと麦を播いておこうか。
強力小麦とライ麦。
稲の切り株のラインでざっくりと条播きにすればいいでしょう。

麦の連作が限界にきた三郎は、
今年は蕎麦を刈った後に、
冬の間、灌水しておこうと思っています。

しかし、来週はちょっと天気悪そう。
ぐだぐだに汚れちまった地球の自浄作用だとは思うけれど。
どうも大雨や台風が多いようです。

私はただ、心穏やかに稲刈りをしていたいだけなのだ。

2013年10月12日

ミドリ、その後。

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ちょっと外に出ていたり、天候が悪かったりで、
しばらく稲の姿を見ることができなくて、どうなってるかなぁと心配しておりました。

もう太郎は水を落としていたのですが、
次郎の方はミドリがいるので、暗渠の栓だけは閉じたままにしていました。
台風やらの雨で、どんな水具合になってるか、ちょっと気に懸かっていたのですが、
問題ないみたいです。

腰砕けのコシヒカリの穂が水に浸かって、
芽でも出していやしないかと気が気でなかったのですが、
まぁ、溝の底に少し水が残っている程度で、大丈夫。


これで来週からいよいよ稲刈りです。

 
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ミドリもだいぶ穂が充実して、垂れてきています。
相変わらずかっちょいい。
しかし、穂がこんなに黒いと、
熟れ具合は葉や茎で見るしかないみたいですね。

 
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こちらは蕎麦。
条播きしたとおりに、順調に芽が出揃ってきました。

他のところはもう花盛りから実を結ぼうとしているだろうに、
ウチはまだ少年期。
これからです。

寒さに負けずに立派に実を結んでくれるといいですね。

2013年10月 2日

かっちょええぞ、ミドリ。

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晩稲のミドリ米の立ち姿が、
もう惚れぼれするぐらい素敵なのです。
最初は小さな草むらみたいなまま、なかなか穂も出ず、
何だこりゃと思っていたのですが、
根を張るのと株を太らせるのにたっぷりと時間をかけていたんですね。

ある時期からすくすくと伸び始め、
やがて天を突くかのように黒い穂を出してきました。

 
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いや、かっこいいなぁ。
来年からもう、これだけ植えようかと思うほどかっこいい。
しかし、いかんせん糯(もち)米ですからね。
やっぱり主食のウルチもなくちゃ困る。

 
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これは年末のもちつきが本当に楽しみです。

しかし、うっかり全部食べちゃいかん。
来年の種籾も置いときゃなきゃ、ですね。

 
こちらは隣の黒米。

 
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黒米もいいのだけれど、
この種は背が低くて分けつも少ないので、
ミドリと並ぶとだいぶ貧弱に見えます。

そうか。
これなら、もう少し株間を詰めて植えた方がいいかもしれないですね。
うん、来年はそうしよう。
 
こちらがキヌムスメ。

 
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今頃になって気づいたのだけれど、
南側の方が太陽がよく当たるのか、熟れ具合が少し早いようです。
いつも畦の北側からしか見ていなかったので、もう少しかなと思っていたのに、
南側から見ると、もう刈ってもいいぐらい。

それよりも腰砕けが気になるコシヒカリ。
これを先に刈ってしまいたいのです。

でも、同じ圃場には晩稲のミドリがいるから、水を抜いてしまうこともできない。
水が抜けないと畝も柔らかいから、稲木がしっかり立てられない。
刈るのもやりにくいし、刈っても持ち出さなきゃいけないんですね。

三郎の空いている畝に稲木を立てようかとも思ったのですが、
アチコチにならだが散らばるのも効率が悪いし、何だかねぇ。

で、いろいろ考えたあげく、
太郎のキヌムスメの熟れている南側をちょっと刈って、
ここに稲木を立て、
刈ったコシヒカリと早稲モチはこっちで干そうと考えました。
それがいいでしょ。

そう決めて、今日太郎の水を落としてきました。

・・・と書いてたら、雨が降ってきた。
台風の影響でしょうか。


来週は晴れてくれればいいなぁ。
ということで、次の火曜日あたりからぼちぼち稲刈りを始めようと思っています。
天気が良ければです。

まぁ、手刈りですから、
しばらくは楽しい稲刈りの日々が続きます。

2013年10月 1日

フクシマ、電磁波、リニア、吉野家

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どーなってるのぉ、フクシマは。
ドーナッツ!
ということで、
この9月に福井市で行われた「福島汚染地帯を踏破して」という広瀬隆さんの講演会
が気になったので、youtubeを見ました。

島根あたりの安全な(今は)ところで、
平和な日々をぼけっと過ごしていると、
同じ国に、この今も地獄絵図があるのだということを、
ほとんど忘れていられます。

そういえば、かつて阪神大震災の時も同じ事を感じたのでした。

あの時も、全ての交通機関がマヒしていました。
住んでいた大阪から、被災地の神戸の実家まで、
ガソリンのペットボトルを原付バイクに載せて、
瓦礫に埋もれた道なき道を、神戸まで必死に走ったのでした。

被災地では、道路や建物がぐしゃぐしゃに潰れ、
人がまだ瓦礫の下敷きになっているというのに、
隣の大阪の街では、いつもと同じ通勤風景が繰り広げられているのです。

これはいったいどういうことなんだろう。

その不思議な感覚は今も残っています。
私のたいへんさは、他人のたいへんさとは全く別物です。
隣の人が死ぬような思いをしていても、私には関係ないのです。
私と隣の誰かとは、同じ空気を吸ってはいても、
住んでいる世界が違うんです。

それは「思いやり」とか、「助け合い」とか「気持ちがわかる」とか、
そんな言い方で接点を見出すことはできるのかもしれません。
でも、どうしようもなく、それは「他人事」なのです。

世界中の幸せを独り占めできないように、
世界中の不幸を、私が全部背負うこともできません。
哀しいかな、私には私の幸せと私の不幸しか背負えないのです。

でも、理解することはできます。
我が身の問題として捉え直し、自らの生き様を振り返ることはできます。
ちょっと長いけど、覚悟して見てください。
きっと、引き込まれるように見てしまいます。

 

 
ちょっと、泣きたくなってしまいます。
本当に、信じられないくらい、愚かな現実です。
最後には、人間の一番大切な「水」まで汚染されてしまうのです。
確実に。

広瀬さんが最後に言っていました。
みんな好きなように生きればいい、でも「原発の再稼動」だけは反対してください。
ほんとに。

この国民にしてこの国と言われれば身も蓋もありませんが
自分の国を恥ずかしいと思う国民ほど、不幸なものはありません。

 

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先日、ばらまきしたのらぼう菜の芽が出てきました。

資本主義経済の社会では、
どの国もまず企業利益を優先させるのが政治の常です。
それでも、いざ人の健康や生命に関わる問題となれば、
嫌々でも、ブレーキ(規制)をかけるのが政治であり、人の良識というものです。

しかし、日本はこのあたりがもうマヒしてるというか、
完全に狂ってしまっているようです。


広瀬さんは、電磁波の恐ろしさについても以前から訴えています。

電磁波については、WHOも脳腫瘍の発がん性リスクの可能性を認め、
電磁放射線許容レベルのガイドラインを出していますが、
EUでは、これを無視してもっと低い被曝限度レベルを設定すべきだとしています。

日本ではどうでしょうか。
想像どおり、WHOの基準内(ぎりぎり)だから何も問題はない、
といって何もしていません。

電磁波の影響は大人よりも子供の方が高い。
10歳児:2.5倍・5歳児4.2倍、
目への影響を比較すると、5歳児では12倍にもなるそうです。

このため、イギリス、ドイツ、フランスなどでは、
妊婦や子供の携帯電話は利用を控えるべきとの勧告を出しており、
韓国では、規定の電磁波等級を超える携帯は、製造・販売ができません。

日本はといえば、
「健康リスクが完全に解明されていないから・・・。」
とかの理由でまったく放置されており、マスメディアもそのことには触れません。

これも原発の放射線リスクと同じ態度ですよね。
マスメディアにとって、健康被害問題というのは、
自分たちの利益に反する「スポンサータブー」というやつなわけです。

ほんとにひどい。

そうそう、今話題の「リニア新幹線」。
これも電磁波による桁外れの被爆が懸念されています。

しかも、リニアを動かすにはかなりの電力(原発3~5機分)が必要。
JR東海は、この電力を、
新潟県の柏崎刈羽原発、静岡県の浜岡原発から送る事を考えています。
つまり、再稼動とセットの話なのですね。


同じく、広瀬隆さんの講演「リニア新幹線と原発」。
 

 

最近は、もうこんな勧善懲悪のドラマみたいな話ばかりで、
それはわかりやすくていいのだけれど、
何ていうか、悪いヤツってのは、まぁとことん悪い。

問題は、
いつになったら、「えぇい、ズ(頭)が高い、控えおろう!」
っていう場面が見られるのかということです。

まだまだ、自分が生きている間は見ることができないのかもしれませんが、
私はもう、いい加減うんざりしています。

 
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これはウチの田圃で自生するハトムギ。
今年はお茶になる予定です。


「吉野家、福島でコメ自社生産 被災地支援の狙いも」
ふー、ようやく吉野家までたどり着いた。

あー、今度はそう来たか。
国が推進したい農地集約は、百害あって一利なしだと思うのですが、
その愚策に加担する吉野家、しかも福島で。

残念だけれど、
これでもう、私は生涯「吉野家の牛丼」を食べることはなくなりました。
まぁ、普段からほとんど外食はしないんだけどね。

 
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あっ、へび!
いや、へびの抜け殻です。

以上。