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2013年6月20日

宅野の海にダイオキシン

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私が島根に来て2年ほど経った頃に、
宅野にゴミ処分場が建設されるという話が持ち上がりました。
不燃物や瓦礫の最終処分場(巨大な埋立地)です。

ゴミ処理施設というのは、とかくローカルな存在で、
自分が住んでいるエリアの話でなければ、あえて気にする人なんかいません。
毎日ゴミは出してはいても、どこかで誰かがうまく処理してるんだろうぐらいに思って、
その実態についてことさら関心を寄せたりはしません。

でも、ゴミ処分場からの有害な浸出水が河川や海を汚染して問題を引き起こす事例が、
実際には日本中のあちこちで生じています。
その危険性を知っている人にとっては、当たり前の深刻な問題です。
でも、そういう知識も認識も持たない人には、
「必要悪」という言葉で切り捨てられる、たかが「ゴミ処分場」にすぎません。


そういう意味では、あの原発と同じ事じゃないかと思うのです。


宅野にゴミ処分場が建設される。
それは、まさに自分が住むエリアの中で持ち上がった問題でした。

知れば知るほど、関われば関わるほど、その背後の闇は深く、
結局3年半もの間、その深みにずぶずぶと足を踏み入れる結果になりました。

「宅野の海にダイオキシン」というのは、
その3年半の間、実際に起こった事、感じた事を時系列でまとめた手記です。

現地は、環境アセスの段階から、
基準値を超えるダイオキシン類やヒ素、鉛等が検出されていました。
その不法投棄の痕跡を覆い隠すかのように、着工後は大型重機が動き回り、
そして宅野のゴミ処分場建設は、今着々と完成に近づいています。

私たちは行政のあまりの横暴に異を唱えました。
しかし、それを住民運動と呼ぶのはちょっと違うような気がしています。
それが何なのか、うまく言葉にはできないけれど。
かつて日本の54の過疎地に、
極めてローカルな問題として持ち上がった原発建設の話と、
背後の闇でひそかに通底しているものを感じざるをえません。

きっとある日突然、原発建設の話が持ち上がるのです。
そしてその計画に住民が関心を持ち始める頃には、
もう、国も自治体も、町の有力者も大方の地権者も、みんな既に了解済みで、
原発の建設は決定事項になってしまっているのです。


原発で万一事故が起きた時には、
影響は広範囲に及び、もはや取り返しがつかないことを、3.11で思い知らされました。
こぼれてしまったミルクを嘆いても仕方がないのです。
考えれば当たり前のことなのに、そういう知識も認識も持たない多くの人々にとって、
「原発」は、「必要悪」という言葉で切り捨てられる施設にすぎませんでした。


結局は、カネという利害関係に集約される背後の闇の愚かさ。
それは笑えない茶番劇なのだけれど、
言いたいのはそのことじゃなくて。

「原発」にしろ「ゴミ処分場」にしろ、
ターゲットにされた過疎地の、極めてローカルな問題に押し込められて、
限られた僅かな住民だけの了解で、否応なく建設に持ち込まれるシステム。
それこそが、巧みに仕組まれた罠だと思うのです。


過疎地の閉ざされた村の中で、
行政も、町の有力者も大方の地権者も、既に了解済みの建設計画に、
あえて反対を表明するという事がどれだけ覚悟のいる事か。
私はこれまで想像もつきませんでした。

それは都心のストリートで、
隣人のプロフィールも知らない、およそ日常生活には利害関係の及ばない立ち位置で、
ちょっと週末の散歩がてらに原発反対のデモに参加してみるのとは、
まるで様相が異なります。

計画に反対を表明した途端に、
それまでは普通に挨拶をかわしていた近隣の人たちから、
まるで村八分のような視線を投げかけられ、口もきいてもらえなくなる。
仕事場や得意先にまでその影響は及び、
やがて家族や親戚までが、次第にその町に居づらくなる。
そういう状況が本当に起こってしまうのです。


問題は、
例えば、都心のストリートで、あるいはFacebook で気軽に原発反対という人の中で、
仮に自分や自分の家族が住んでいるエリアで、そういう建設話がふってわいたとして、
何人が「建設反対」と言い続けられるか、ということです。


良いものはいい、悪いものはわるい、最初は誰もがそう考えます。

でも、行政はいったん予算化した事業計画をそう簡単には撤回しません。
過疎地のわずかな住民の中で、まず有力者をおさえ、
行政関係者や地元企業の地縁血縁で主たる住民を囲い込んでいきます。
そうすると、建設賛成派が住民の多数を獲得するのは時間の問題です。

いつまでも反対していると、
職場にも裏から手が回り、公的機関や地元企業に勤務する場合には、
人事異動や昇進の問題にまで影響が及んできます。
近隣の人たちとのつきあいもギクシャクし始め、家族も精神的にまいってきます。
そんな馬鹿なことがと思うことが、過疎の町では現実に起こるのです。
そこに親類縁者のいない他所者ならまだ気は楽ですが、
代々その地で暮らす地元民であるなら、よほどの覚悟が必要です。


それでも建設に反対しますか。

最初は、良いものはいい、悪いものはわるいと考えていた人たちも、
目立つ集会への参加は理由をつけて欠席するようになり、一人抜け、二人抜け、
やがて誰もがその事には口を閉ざすようになっていきます。

物事の是非を追求することより、
建設された後の万一の事故を危惧することより、
うわべだけでも、平穏な近所付き合いや日常生活の方がやっぱり大事だと思うのでしょう。
そんなに片意地張って反対しなくても、
適当に話を合わせておけば、
これまでと同じような波風の立たない暮らしができると考えるのでしょう。

どちらが楽かと言えば、うわべだけでも周囲にいい顔をして、
大多数の意見に話を合わせて、右へならえしておく方が楽に決まっています。
「そりゃ、仕方ないよね。家族もいるんだし、生活もあるしね。」


でも、そんなことで、日本の54の過疎地に、
巧みに仕組まれた罠で、見事に原発が建ってしまったのだと思うのです。


「そりゃ、仕方ないよね。」
と簡単に言ってしまえれば楽なのですが、その楽を黙して享受すべきなのでしょうか。
私はまだ、自分の中でしっかり納得ができないでいます。
そのことが、心の片隅の溶けないしこりなのかもしれないと、今は思っています。


「宅野の海にダイオキシン」
この冊子の刊行は「大田の自然と生活環境を守る会」の住民有志ならびに支援者からの
カンパにより実現したものです。部数には限りがありますが、ご希望の方は、一冊1200円
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