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2011年12月10日

やくたいもない話

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昨日、みぞれが降った。
もう12月なのに、野良仕事をしていると半袖でも暑い日がある。
田圃では夏の虫に刺されたり、夜にはまだ蚊がブーンと飛んでいるのだ。

そうかと思うと、昨夜半から急に冷え込み、雨がみぞれに変わった。


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今日なんか、ストーブの側にいても背中が寒い。
いったいどうなってんだ。


「思想としての3.11」という本を読んだ。

思想とか哲学を生業にしているような人たちは、
いったいこの3.11をどうとらえているんだろうか。
それはやっぱり、ちょっと興味があった。

しかしこの本を読んで、意外にもというか、やっぱりというか、
この有事にあって、日本の思想家とか哲学家と呼ばれる人たちというのは、
まったく、やくたいもない。

やくたい(益体)もない、というのは、
「役に立たない。無益だ。つまらない。でたらめだ。」ということ。
用法 → そんなやくたいもない話はやめろ。  Stop talking such silly nonsense.
ということですね。

も少しガツンと、コトの本真に迫る論述が読めるのかと思ったら、
どれもこれも、冗長な文学的言葉遊びの域を出ない。
都市に暮らす知識人たちは、なんでこんなにも無力なのか。

きっと、豊かな経済機構の恩恵をフツーに享受しながら、
当たり前の消費生活を日々当たり前のように消費しているからなんだろうね。


 
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この本の最後に「反原発のしるし」という記事があって、
こんなことが書かれてありました。


原発はたんなる発電所でもなければ、リスク管理の対象でもない。
原発は国家や資本のコントロールを正当化する装置である。
かつて鉄器をもった支配者に服従したように、
われわれは原発による統合をしいられてきた。

反原発であることは、なによりこの装置による囲い込みそのものを破壊することである。
賭けられているのは「危険に陥った世界における危険に陥った現在意識の救済」
であり、原発という装置からの脱出は呪術的な世界への下降なしにはありえない。


つまり、民衆の、というより覚醒した無名の個々人の、
アナーキーな呪術的抵抗だけが、このやくたいもない世の中を変える起爆剤と
なるのかもしれない、という主張。

そういえば、そういう兆しがなくもないなぁ、と思ったりする今日この頃です。

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