コスモス畑から
今、ウチの庭は、見渡す限りのコスモス畑になりました。
中にはトマトや大豆もあるのだけれど、畝以外のところは全部コスモスが屹立しています。
なかなか壮観です。
でも、このコスモスが最期までまっとうしてその種が散らばったなら、
来年はいったいどうなるんだろうかと、少し気になったりしています。
そうはいっても、畑をまるごとコスモスさんに譲る気はないので、
来年、たぶんコスモスの芽が生え出したら、
もう、片っ端から抜いて回らないといけなくなるかもしれません。
先日、二度のメインボード取り替えの後に戻ってきたデスクトップPC。
この際、全部初期化してきれいな身体にするために、データ整理をしていました。
これが2日も3日もかかってしまうんですね。
でも、結局、
過去のデータなんて「何かの時に・・・」ほどの意味しかないものです。
本当はこんなクソデータ、要らないんです。
こんなこと、あんなことをしてきたデータの亡骸が
何10GBにもなってHDに残っています。
ついでにメールの整理もすることにしました。
メールだけでも、何やかやで1GBほどに膨れあがっていました。
捨てるのと、捨てないのをざっくり見ていくと、
あんな時、こんな人からメールがあった、とか。
それに、こんな返信をしていたな、とか。
そういえば、こんな人もいたよなぁ、とか。
あの人は今頃どうしてるだろうか、とか。
そんなもの、
たぶん残しておいてもどうしようもないのだろうと思います。
それでも、無くなっちゃうと、
何だか、ここで生きてきた証が無くなっちゃうような気がするのかもしれない。
でも、本当は要らない。
どうせたいしたもんじゃないんだ。
人一人の一生なんて、最近の大型HDなら1個の中に入っちゃう。
たかがテラです。
川口さんはいいました。
あるいは、ぼくはすべてに対して正しいことをしてますよ、
あるいは地球の環境にとっても人類にとっても、
すべての生命にとってすばらしいことをしてますよなんて、
言ったら言った分だけ対立し、争いともなってエネルギーがなくなるし、
大切な時間も無くなっていく。
そんなこと一切言わないで田圃にいきますのやわ。
いったい何によって、
人は人として生命をまっとうすることができるのだろう。
昨日、はくさいの種を蒔きました。
ちょっと遅いかなとも思ったのですが、今日が雨だというので、ひと畝ほど。
はくさいというのはもともと中国産で、チンゲンサイとカブの交雑種なんだそうです。
はくさいの種子は本当に小さくて、
何かパラパラと、いつも適当に蒔いちゃうんですね。
そうすると当然密生して芽が出てくるものだから、間引くときに可哀相でもったいなくて、
今度からひとつぶ一粒、ちゃんと蒔こうといったんは決意するのだけれど、
その時だけですね。
ったく、どうしようもない。