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2009年3月28日

作付け表

畑の管理をちゃんとしたいなぁと思って、
とりあえずこれまで購入した種や苗のデータベースを作った。

しかし、如何せん。
いつ播種して、いつ収穫したか、出来はどうだったか、なんて
そんなこと、ちっとも記録してないんだよなぁ。

だいたい、蒔き時期も成育期間も異なる50種もの野菜を、
4つの畑の畝ごとに年間通じて割り付けるなんてできるものか。

それにそれぞれ、土の状況は毎年変わるのだ。
連作や交配のこと、適不適なんかを立体的に考えると、
とても手に負えない。

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何と、ライ麦の穂が出てきた。
すごいなぁ。

種さえ蒔いておけば、野菜は勝手に育つのだ。

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ソラ豆だって、りっぱに花をつける。

じゃがいも、タマネギ、ニンジンは確保したから、
今のうちに、葉ものをちょっと植えておくか。

今年は味噌を作ってみたいと思うから、
5月の大豆をどこに植えたものだろうかと悩むのだ。


まぁこの調子なら、やっぱり今年も畑の隙間を見つけて、
思いつきで、あちこち種を蒔くことになりそうだ。

実をつけるまで、いったい何を植えたのだったかわからない。
完全に忘れちゃうと、同じところに何度も違う種を蒔いたりするんだよなぁ。

まぁいい、それでも野菜は育つのだ。

2009年3月25日

思い込みからの脱却

人はみなくだらない思い込みの中でもがいている。
自ら作り出した憂鬱の泉で、
自ら作り出した憂いを大事そうに温めているのだ。


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「できない」という思い込みが、新しい生活への模索を阻む。
それは徹底的に、不可能に近く阻んでしまうのだ。

既成概念は何もかも捨てられるはずなのに、
どこかで頭の隅にこびりついた固定観念が生活の邪魔をする。

「草が生えたら野菜がうまく育たない」
「畑は耕さなければ土が固くなる」
「虫がついたら徹底的に駆除しないといけない」


それでも、循環する自然界においては、
草が虫の棲み処になり、エサにもなる。
草の根が枯れて土のこやしとなる。

よもぎなどの根がはる多年草だって、
やがては消えて別の草に生え変わるのだという。
スイバも野菜と共生できるのだ。

「耕さず、草は抜かず、ただ草刈をして、その場の敷き草にするのみ」


作付け表をきちんとつくりたいなぁ、と思っています。

タマネギ
にんじん
じゃがいも
サツマイモ
大根
かぶ
きゅうり
トマト
白菜
キャベツ
キヌサヤ
ごぼう
かぼちゃ
インゲン
おくら
しょうが
落花生
ソラマメ
大豆

とうもろこし
ズッキーニ
イチゴ


基本野菜だけでも、もう畑がいっぱいになる。
種を買ってくると一袋にたくさん入っているものだから。
貧乏性なもので、あるだけ全部蒔いちゃうんだよな。
すると、次の季節に植えたい種が、蒔く場所がなくなって困る。

そろそろ、ちょっとは計画的に畑をやりたいと思うのだ。

麦との混植はいいね。

畝間70cmで麦を蒔き、冬を越し、翌年の収穫間際に
大豆やサツマイモの苗を株間3~40cmで定植する。
麦の収穫後にはそこが大豆やサツマイモ畑になって、
残された麦の根が、大豆やサツマイモのよい肥料となる。
いいね。


「お金がたくさんなければ、生活していけない」
そう思ってる人に、何を言っても仕方ないんだけれど、
でも、本当はそんなことないんですけどね。

林の中にみつまたの群生が

たらの芽を探していたら、杉林の中にみつまたの花が咲いていた。
仄白く辺りを照らして、静かに群れるみつまたの花。
その金切りの細い枝が、三つに分かれ、
それがまた三つに分かれて、三つに分かれ。


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たらの芽というのも不思議なもの。
ただ一本や二本でニョキッと立って、その先っちょからひとつ芽を出す。
せっかく出した芽をポキッと折るのも、少し気は引けるが、
また脇から出てくるのだそうだ。

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川土手の水面に映る黄色がきれい。

水際のセリや、日陰のユキノシタや、自生してするやわらかいニラを採った。
茹でて食べた。

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まだ産毛のついたつわぶきをたくさんいただいた。

夜なべ仕事にふきのスジを取っていたら、フキユビになった。
ふきのアクが、指のひびの割れ目にしっかり染み付く。
この黒ずみが二三日はとれないのだ。

それでもこの指先は、とてもツルツルとして気持ちがいい。
ふきのアクは、天然のハンドクリーム。
ふきのスジが取れて○、指先が保護されて○、しかし指が黒ずんで×。
まぁ、二勝一敗で良しとしよう。

2009年3月24日

久しぶりに畑を

驚くぐらい気温が上がったり、寒の戻りがあったり、
こんな風にして季節は巡っていくのだ。
冬の間はほとんど放置していた畑に草が目立つようになってきた。

大風で倒れたものもあるけれど、
ゴマのような黒い油虫がびっしりついているところもあるけれど、
ライ麦がぐんぐん伸びてきた。


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つるが伸びて、白い花が咲きはじめた、さやえんどう。
そろそろ支柱を立ててあげないとなぁと思っていた、さやえんどう。
ようやく支えの手を差し伸べてあげることができた。
本当は、自分のことは自分で何とかしてもらいたいものだけれど。

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そうして、ついにジャガイモを植えることができた。
シンシアときたあかりとメークイン。
第三に二畝、第四に二畝。
今年は脇に土をよけて、後で土寄せができるようにした。
もちろん、無肥料。

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茂っていた雑草を根から抜いて、スコップでざっくりと耕した。

雑草を見ると根こそぎ抜きたくなる誘惑に駆られるのだけれど、
土に空気を入れて混ぜてやりたい気持ちになったりするのだけれど、
本当はそれすらも必要ないという。

何もしないのにも努力がいるもんだ。

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いちごの花が咲き出した。

2009年3月15日

菜の花の咲く頃

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そりゃ、今日あたりはちょっとストーブがないと寒いけれど、
河原の土手には一面に菜の花が咲いていた。

そろそろじゃがいもを植えないとなぁ。

ストーブのそばでは、ほのかな紅をさしたぼけの花が開いて。

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それでも、何も変わらないのだ。

2009年3月14日

いい人はいいな。

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こんなふうに空がぐずぐずしている日は、
朝起きるのにも勇気がいる。
今、ここでこうしている自分が、本当に本当の自分なのか、
わからなくなっちまうんだ。


もちろんそんなこと誰にも話さないのだけれど、
そんな朝は、ちょっと弱気になってしまったりする。


そんなぐずぐずとした身支度のあとに、玄関を開けて驚いた。

玄関には、米袋に入れた薪が5袋も置かれてあった。

かさ地蔵に出会ったような幸福感。

「誰だろ、うれしいなぁ」
こんなふうに、自分は人のあたたかい気持ちに支えられて、
生きていられる。

心当たりのある人があれこれ頭に浮かぶ。
「誰かなぁ」

その時、袋に書かれたメッセージが目に入った。

「シェルブール 三原より」

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あっ、フレンチの三原さんだ。

昨日、午後の休み時間にお店に来てくれた。
その時に、チェーンソーで切った松の木の話をしてくれた。
「いるならあげるよ」、と言ってたけれど、
こりゃ、速攻だね。

今朝早くに、持って来てくれたんだろうな。
乾いた松の太いのが、ちょうどいい長さに切ってある。
朝から袋詰めして、重たいのにわざわざここまで運んで来てくれたんだ。

出雲から、往復2時間。
それなのに、声もかけずに、かさ地蔵みたいに置いて帰った。

いい人はいいなぁ。

手斧でストーブのひと口サイズに割って燃やした。
燃やすごとに、心が暖まる。

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ありがとう、三原さん。

三原さんのお店で、今度3月28日にクラシックギターのライブをやるって。
意外だけど、18年やってて初めての試みなんだそうだ。
三原さんのおいしい料理を食べながらのライブ。
いいと思うよ。

予約を入れてからどうぞ。

■フランス料理 「シェルブール」■
http://ww5.tiki.ne.jp/~cherbourg/


シェフはあんまりべらべらしゃべらない。
そういうものなのだそうです。

でも、いい人はいいな。

さっきのみぞれをとってきた
あのきれいな松のえだだよ

なんといふけふのうつくしさよ
わたくしは緑のかやのうへにも
この新鮮な松のえだをおかう
いまに雫もおちるだらうし
そらさわやかな
turpentine(ターペンタイン)の匂もするだらう

ありがとう、三原さん。とてもうれしかったよ。

2009年3月12日

語らないよりは語ること

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何だかもう、話したくない気持ちになることはたくさんある。

拒否して突っぱねてしまうことは簡単なことだ、とわかっていても、
それでも「語らないより語ること」を選択するのは、
とても勇気のいることに違いありません。

村上春樹がイスラエルの「エルサレム賞」の授賞式で行った
記念講演の全文を読んだ。

村上春樹って誰かに似てるなぁ、と思ったら
羽田孜さん、とか片岡鶴太郎さん、だったりする。
ま、どうでもいいことだけど。


「エルサレム賞」というのは、社会における個人の自由のために
貢献した外国人作家に贈られるイスラエル最高の文学賞なのだ
そうだ。

「社会における個人の自由」
そんなこと、これまで真面目に考えたこともなかったけれど、
日本では、そういう視点がとても新鮮に思える。

イスラエル軍が、ガザ地区の戦闘で武器を持たない市民を1000
人以上を殺戮したとしても、それでも「社会における個人の自由」
をテーマにした文学賞を持てる国であるということ。


村上春樹は考えに考えた末に、その授賞式に出席することを決め
たそうだ。その理由のひとつは、あまりにも多くの人が「行くな」と言
ったから。
見ないことより自分で見ること、何も語らないより語ること。

村上春樹が小説を書く時に、いつも心に留めている言葉に、
「高くて頑丈な壁と、壁にぶつかれば壊れてしまう卵があるなら、自
分はいつでも卵の側に立とう」というのがある。

講演では、その「壁と卵」のメタファー(隠喩)で、ガザ地区を攻撃し
たイスラエル軍と、武器を持たない市民を表現した。

私たちはそれぞれが多かれ少なかれ卵であり、そして私たちそれ
ぞれが、程度の差はあれ、高くて頑丈な壁に直面している。

壁には名前があり、「体制(ザ・システム)」と呼ばれている。

体制は本来、私たちを守るためにあるが、時には、私たちの生命を
奪ったり、他の誰かを、冷酷に効率よく、組織的に殺すようにし向け
ることがある。

体制に搾取されるのを許してはならない。体制に生命を持たせては
ならない。
体制が私たちを作ったのではなく、私たちが体制を作ったのだから。

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「罪を憎んで人を憎まず」という言葉があります。

それでも、「罪でさえ憎む必要はないんだ」という人に出会って、
「そうか、そういう考え方もあるのか」と思って、新鮮だった。

僕たちは本当はあらゆるものを捨てることができる。
捨てれば捨てるほど、自分の身も心も軽くできる。
それでも、98%ほど捨てたとしても、
残りの2%ほどは意地として取っておいてもいいだろうと思っていた。

ところが、それさえ捨ててよかったんだ。

2枚の写真は出雲のシェルブールというフランス料理レストラン。
店内にはクリムトの絵がたくさんかかっています。
この店で18年。オーナーシェフは素敵な料理人です。

その三原さんが作るデザートは、とびきりおいしい。
おいしいデザートを作る三原さんの人生を思ってみる。


出雲に出かけたら、ぜひ寄ってみてください。
不定休なので、予約してから行くといいみたいですよ。