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2008年7月30日

葵貝(アオイガイ)を拾った

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The early bird catches the worm.
いわゆる、早起きは三文の徳というやつだ。

子どもたちが海遊びに来るからと、朝起きて海岸清掃をしていたら、
何とも珍しいものを拾った。葵貝(アオイガイ)。
「貝蛸」が作った殻だそうだ。11cmぐらいかな。

貝蛸の雌ダコは太い第一腕から石灰質を分泌して、この貝殻をつくる。
蛸は、みんな昔は貝だったんだ。
そうしてその腕で貝をかかえ、中に卵を産む。


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from 東北大学理学研究科附属浅虫海洋生物学研究センター

蛸は漏斗から海水を吹き出して、殻を進めることもできるって、
そりゃー、あの生きた化石といわれるオウムガイみたいなもんだ。

やがて海の表面で卵が孵り、
子供たちは泳ぎ去り、母は貝を捨てて新しい生活を始める。


海からの贈物 (新潮文庫)
という本を読んだことがありますか。


そこに、「たこぶね」という章がある。

たこぶねも蛸貝と同じ仲間、舟蛸の殻だそうです。
この本で不思議な貝(蛸?)がいるものだと記憶に残っていたので、
本物を見てみたいと、ずっと思っていました。


この本は、リンドバーグ夫人の著。
単独飛行で世界で初めて大西洋横断を果たしたという、
「翼よ、あれがパリの灯だ」の、
あのリンドバーグ大佐の妻ということになる。


女性の立場として云々という書き出しだから、
どうだろうと思って読んでみると、
これが結構おもしろい、それになかなか深い。


この中でスコットランドの哲学者マックマレーの引用というのがあって、

「・・・それ以外に何の目的もなくて、
   特定の利害関係に基づいてもいなければ、
   一部的な、限られた理由から結ばれるのでもなくて、
その価値は全くそれ自体だけにあり、それ故に他の凡ての価値を超越する。
そしてそれは、それが人間と人間の、人間としての関係だからなのである。」


うん、
つまり見返りを求めるような施しなら、最初からするなということだ。

ボランティアという言葉は、どうも気恥ずかしくて嫌だけど、
「お返しをもらったら、誰も悪い気はしないだろう」
みたいな丸め込まれ方は、私はどうも胡散臭くて好きになれない。

同様に、
「結局は、儲けがないと誰もついてこないから」
みたいな言い草も、反吐が出るくらい嫌いだ。

本当にやりたいことがあるなら、一人でもそれをやる。
そうでしょ。

そこに、儲けや利害関係がないとやらないというのなら、
そんなものやらなきゃいい。

結局それは、アンタが本当にやりたいことじゃないんだ。

本当にやりたい人となら組めるけど、
そうじゃなきゃいいよ。
自分一人でやる。
ヒトリデダッテ、デキル。


また、ブレークの詩の引用に、

「喜びを自分のために曲げるものは
 翼がある命を滅ぼすが、
 通り過ぎる喜びに接吻するものは、
 永遠の日差しに生きる」

というのがあった。

まさに、ココロドス、ですね。


「・・・完全に調子が合っている二人の踊り手は各自の、
   そしてまた相手のうちにある"翼がある命"を決して滅ぼさない。

   しかしこの踊りの技術を、我々はどうしたら覚えることができるだろうか。
   ただそれがあれほど難しくて、我々は躊躇したり、躓いたりばかりしているのだろうか。
   我々が前の瞬間に縋り付いたり、次の瞬間に待ちきれずに手を出したりするのは、
   恐怖からだと私は思っている。恐怖が"翼がある命"を滅ぼすのである。」


恐怖。恐怖。
ああ、恐怖か。
何をそんなにビビってんだよ。
誰もアンタのことなんか、取って喰いやしないよ。

自分は社会に受け入れられなくなるのではないかと思う恐怖。
誰かに後ろ指を指されるのではないかと思う恐怖。

もう、誰かに愛してもらえなくなるのではないかと思う恐怖。

そうして、一番重く圧し掛かるのは、
自分はこの先食っていけなくなるのではないかと思う恐怖。


それが怖いから、
好きでもない人にヘイコラして、好きでもない仕事に時間を費やす。

いや、もっと複雑だな。

たいして好きでもない人に調子を合わせて、
たいして好きでもない仕事を朝から晩までやって、それなりの給料を得る。

もっと、日常的?

楽しいことばかりじゃないけど、嫌いじゃないよ、今の生活。

ま、それでもいい。
そんなふうに、いつまでも道化て、毎日油売ってればいいさ。

真綿のようにまとわりつく恐怖に、Killing me softly、だ。


チーナカさんは、軽いステップで、もう次のステージに踏み込んだ。
「田舎暮らしのカフェ」で売り出したカフェ物件にも、
結構たくさん問い合わせが来ているみたいです。

都会暮らしに、もううんざりして、
残りの人生を田舎で何か始めたいと思うなら、
都心に近くて山の中。
石窯&工房つきの、カフェレストラン居抜き物件。


そこはあなたにとって、願ってもないステージになるかもしれません。
お問合せはお早めに。

2008年7月26日

夏の宝石、ジェラート!

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君にはまだ言ってなかったかもしれないけれど、
この夏から、ちょっとおしゃれなイタリアン・ジェラートを始めました。
「あまなつジェラート」時々、「バナナジェラート」。

いずれも、ミックスベリーのおしゃれな宝石をトッピング。
このベリーの粒が、口の中でちょっとスッパく、きりりとうまい。

もちろん、カキ氷もやってます。

定番中の定番。これを食べなきゃ、一日が終わらない(私だけか・・)。
「あまなつ氷」
食べた人はナットク、実感。一度食べたらヤミツキ氷です。
シンプルだけど、極上うまい。
世の中にこんなにおいしいカキ氷の選択肢があるなんて・・・。

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「宇治氷」
抹茶がたくさん入ってる自家製シロップだからね。
色だけついてる夜店のカキ氷とは訳が違う。

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「みぞれ氷」
(みぞれって、ミドレみたいで愉快だね)
これも自家製なので安心です。

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それに、「ミルク」「金時(あんこ)」「イチゴ」のトッピングが選べます。

夏はカキ氷。
食べた人から、涼しくなれるる!

ウチは、クーラーなんかないかからね、余計にカキ氷がおいしいのでですよ。

あ、暑さで、少しおおかしくなってきたたんたん。

では、またお会いし、しましょう。

2008年7月24日

夢の箱、箱の夢。もしくは、田舎暮らしのカフェ。

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僕たちはいつも何かをし始めようとする。

何かをしないで、そのまま生きていても、
何だか生きている意味のようなものがうまく掴めないからだ。

だから何かをしようとする。
いったい、何を。
その何かがわからないから、こんなにも胸が焦げる思いがするのだ。

何をやってもいい。
どこに行ってもいい。
それは生まれてから死ぬまで、全部自分で決められること。

それができないと思うなら、それはそうしたくない自分がいるだけなんだ。
できない理由なんて千個でも空で数えられる。


わかったよ、何かをしよう。
いったい、何をすればいい。
その何かをするきっかけというのは、実際どこにでも転がっている。

もちろん、ただ、突っ立ってぼーっと眺めてるだけじゃ、
朝が来て、夜が来るだけだ。

次の日も朝が来て、また夜が来る。
その次の日も朝が来て、また何もしないうちに君の幕は下りる。

頬を打たれて気づく愚かさもあれば、
道端に咲く花を見て、ただそれを愛しく思って涙する朝もあるのだ。

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何かをし始めようとしても、
その手続きの煩雑さにうんざりとして、やる気がなくなっちまう。

それでもいいよ。
思い立っただけでも、君にしちゃずいぶんと進歩だ。


それを本気でないというのなら、
本当の本気とは、よほど精神頑強なヤカラにしか備わっていない本気なのだ。


僕にできる手助けなら惜しまないよ。


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たとえば、静かな山の中で、
カフェでも開きたいなぁ、と思ってもだ。

更地から家を建てることを思えば、気が遠くなっちまう。

場所探しに山の中を探し回ることから始めたんじゃ、
やってられない。

水道は?ガスは?電気は?
ちょっと買い物に出るのに1時間もかかるんじゃね。
いざとなった時の病院は?

・・くだらないよ。
でも大切なことかもしれない。

土地や建物なんて、ただの箱にしか過ぎないんだ。
「箱の夢」。
箱を夢見ることは楽しいことなのかもしれない。
箱を夢見ているうちは、君は何もしなくていいからね。


でも、そこで何をやるか、
本当は君がその場所で、何をどのようにやりたいかが重要なんだ。
「夢の箱」。
自分がやりたいことを注ぎ込める場所。
夢見るだけじゃなくて、一歩踏み出すことができる箱。

オーケー、そんな「夢の箱」を紹介しよう。

■田舎暮らしのカフェ
http://cyana.caferoman.com/

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場所は、島根県松江市八雲町。
私の友人でトルコ料理&カフェをされている「チーナカ豆」さんが、
更地から育てあげた「夢の箱」を、譲ろうとされている。

売りに出してる、とはいっても、土地はいくら、建物はいくら、
みたいな不動産取引のようなイメージは持ちたくない。

そういうのじゃなくて、やっぱり「夢の箱」として、
本当に何かをしたい人のために、
そのためのステージとして使ってもらいたいと考えています。

それで、ちょっと楽しい「お泊り見学会」をやっています。

ご自慢のトルコ料理をご馳走になりながら、
暮れゆく夕べにゆったり浸り、
林の中の虫の声を聞きながら、グラスを傾ける。
そうして、ぐっすり眠った朝には、
焼きたての石窯バケットと挽きたてコーヒー。

素敵でしょ。

もし、あなたが何かをやりたいと思うなら、
こんなところにもきっかけは転がっているのだと思う。


朝日のように爽やかに

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おはよう、僕の友だち。
夏の朝に、低いところから差し込む白い光が好きだ。

「Softly, As In A Morning Sunrise」
オスカー・ピーターソンの空に抜けるようなピアノの音を聞きながら、
たっぷり淹れたモーニングコーヒーを飲む。

でも、本当は違うんだよ。

もう、朝からうだるような空気感と、
身体にまとわりつくような蝉の重奏で目が覚め、
やっとの思いで重い体を奮い起こし、無理矢理今日の一日を始める。

まぁ、どっちでもいい。
どちらにしても時は取りこぼしなく刻まれていく。


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あまり日差しがきついので、立て簾を買おうと思ったのだ。
8尺ほどないと屋根に届かないので、
こりゃー、トラックがないと持って帰れないなぁ、と考えていたら、
何のことはない。

「今年は完売しました。入荷の予定はありません。」


何と。
立て簾が全部売り切れる!などという現象が世の中にはあるものなのだ。


そうか。
それならそれでこちらにも考えがある。

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高橋鍛冶屋さんに出していた手斧が出来上がってきたのだ。

きれいに研いでもらって、
おまけに新しい柄がついて、
なんとまぁ、立派な姿になって戻ってきたことよ。


これがあれば大丈夫。
夏がいくら暑くったって、
冬になれば、薪割りの作業が随分はかどるというものだ。


P.S.
出雲といえば、人口も増えているし、大型ショッピングモールもできるし、
大田から比べればずいぶん都会のような気がしていましたが、
昨日、ほとんど人が歩いていない旧商店街のあたりを案内してもらったら、
何だか出雲もたいへんみたいですね。

目的を果たせなくなった都市と、
都市近郊の中途半端な田舎ほど手に負えないものはない。
そんな感じです。

合板やモルタルやプラスチックな近代化に乗せられて、
朽ちてしまいたくても朽ち果てることさえできず、
ただただ哀れな姿をさらし続けるのみ。

そうなってくると、
過疎高齢化で限界集落をたくさん抱えた、このへんの久利や仁摩がね、
何だか楽園のように思えてきます。

だって、ここらはまだ、
緑に覆われたり、土や水に返ったりすることができるのですから。

人のさいわいとは案外、
腐り朽ちることができることなのかもしれません。

2008年7月23日

梅干しと08式流しそうめん装置

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君にはもう話したかもしれないけれど、今年は梅干しを作ることにした。
しっかりと塩漬けにしたものを、日の当たらないところに置いて、
天日干しをするために、梅雨の晴れ間を待っていたのだ。


畑の青ジソの種の保存のために、畑の赤ジソを撲滅したら、
畑には赤ジソが1本もなくなって困った。
赤ジソがないんじゃ、白干し梅にするしかない。


忘れないように書いておくけれど、第一弾の天日干しは7月10日。
塩漬け瓶が3本で、全部で4kgほど。
それからは、まるで梅雨が明けたようになったので、
次々と順調に天日干しが完了したのでした。

梅雨明けまで待ってから干す人もあるようだけど、
「梅雨の晴れ間がいい。」というのは、本当のことかもしれない。


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でも、干してみると、
これがだんだんいい色合いになってくる。
なんだ、白干しで充分じゃないですか。

1kgほどは、以前いただいた赤い梅酢を加えたのですが、
仕上がりはさほど変わらないようです。

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日が昇らないうちにきちんとザルにならべて、
乾いた頃に、またひとつひとつ裏返していく作業が、
なかなか、非生産的で楽しいものです。


そうして、最後の1、2日は夜露にさらし、
まだ朝露を含んだ梅を、ひとつひとつ袋に入れて完成です。

うん、意外と簡単でした。
さっそく食べると、とてもフレッシュな梅干しに仕上がっています。
来年はもっとたくさん作ってもいいかも。


で、そうこうしているうちに夏休みがやってきた。
今年の夏も、為山塾には保育園さんがたくさん遊びに来ます。

夏はやっぱり、「流しそうめん」。

去年は、浄光寺のご隠元さんの発案で
二段回流式の「流しそうめん装置」が開発されたのですが、
今年は原点に帰って、まっすぐなカタチになりました。


「08式流しそうめん装置」

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シンプルなのはいいですが、
継ぎ目のないのがいいところ。
まずは、4、5mの竹をちょうど半割りにするのがひと苦労なのです。

達人なら、ナタで真ん中に狙いを定めて、
まるで竹を割るように、それは見事に竹を割るのでしょうが、
素人はなかなかそんな具合にはいきません。

真ん中に狙いを定めても、
トンカチ、トンカチ、割れ目が進んでいくうちに、
どちらか片方に寄っていってしまう。

で、1本目は失敗して、
それでも2本目は、何とかだいたい半分になったので、それでよしとした。

トンカチ、トンカチ、
ナタを酷使したので、ついに持ち手の柄が壊れてしまった。
ちょうどいい機会なので、
ウチの手斧と一緒に高橋鍛冶屋さんに直行しました。


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これを支える足がちょっと苦心したところです。
どうです、なかなか美形でしょ。

そうそう、胸を焦がす夕焼け

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胸を焦がす夕焼けのことを書き忘れていました。
漁師さんは、もう年を取って丘に上がっても、
どうにも海のことが気になって仕方がないらしい。

暇があれば、海の見えるところに陣取って世間話に花が咲く。

実際、海は素晴らしいものだ。
毎日、毎日目の覚めるようなステージを準備する。


こんな夕焼けを見ながら仕事ができるなら、
それはいい職業だったかもしれない。


最近はもう、そんなこともなくなったけれど、
何かの拍子に、記憶の奥底にたたみ込まれていた恥辱のようなものが
ふっと脳裏に浮かんでくることがある。

ちょうど、こんな夕焼けに出会った時なんかに。


それは、自分にとっては思い出すのも恥ずかしいようなこと。
間違って思い出してしまって、一人顔を赤らめるような。

そういう恥ずかしいことを、人はひとつやふたつはしてきたのだ。


大人になって、
恥も外聞も丸抱えできるようになってからは、
いったい何が恥ずかしいことやら、自分ではわからなくなってしまったけれど。


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やがて空の月は、その輪郭を露にする。

こんな胸を焦がすような夕焼けを見ていると、
忘れてしまった恥辱の記憶だけが思い出されたりするのだ。

2008年7月22日

2000年ハスと胸を焦がす夕焼け雲


君にはまだ話していなかったかもしれないけれど、
たまたま通りかかった出雲の荒神谷遺跡の、
2000年ハスがそろそろ開花し始めたと書いてあったので、
ちょっと立ち寄ってみたのでした。
7月の9日頃だったかもしれない。


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ハスというのは、何かい、里芋の友だちかね。
里芋といえば、ほら、朝露が葉っぱの上で大きな滴になって、
風に揺られてころころきらきら転がっている。
その様が、いとおかしでしょ。

ハスの花のピンクもきれいだけれど、
あたしゃてっきり、ほら、人が乗れるほど葉っぱのでかいハスかと、
いつの日か百科事典で見た、
「小さな女の子が葉っぱに乗れるほど大きい。」
あのハスのことかと思っていました。

なぁーんだ、ただのハスじゃん。


それでも、種でもあったらもらって帰ろうとおもっていたら、
何と2個100円で売店で売っていた。

そんなもん、欲しい人にあげればいいのに。
どうせ毎年成るんだからさ。


天を衝くもろこしとカラカラに干上がる天の草ども

君にはまだ話していなかったかもしれないけれど、
第一農場(バックステージ、通称BS農場)のトウモロコシの背がだいぶ高くなった。


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だから、ちょうど七夕(7月7日)の日に、
ネットを建ててあげたのだ。

だって、去年はカラスの奴めが、
せっかく大きくなりかけて楽しみにしていたもろこしを、
根元からポキッと折ってくわえていきやがった。

だから今年は、
そろそろ花が咲きそうになったので、
早めにと、懸案の対策を講じたのでした。
しかも、完璧に。

これでコーンちゃんには安心して育ってもらえる。

どうだい、朝日に照らされたとうもろこしは、

もうネットを持ち上げるぐらいに、何と伸びのび育っていることよ。

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それからもうひとつ言い忘れていたのは、
天草のこと。

去年は8月を過ぎてから採りにいったのですが、
もう根の部分がだいぶ石化したのが多くて、
色もあまりよくなかった。

少し行くのが遅かったのかも知れないと思って、
今年は6月に様子を見に行くと、何にも生えてなかった。

で、ちょうど七夕(7月7日)の日に行ってみると、
浜に天草がたくさん打ち上げられていた。
第一弾は、それを拾って干したのでした。

でも、やっぱり少し潜って手からむしり採った方が、
状態がいいような気がするなぁ。

それでもう一度、
初夏の日差しの日の日が水平線に落ちる前に、
海に潜りに出かけたのでした。


すると、やっぱり。
荒波にも耐えて岩に張り付いている天草はとてもきれいだ。
それを手当たり次第にむしっては採り、採ってはむしり。
それをまたウチに戻っては、洗っては干し、干しては洗い。


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するとほらほら、
僕の骨のように白い、
生きてゐた時の苦労にみちたあのけがらはしい肉を破つて、
しらじらと水に洗はれ、からから干上がる天の草。

えっと、そうそう。
これを言い忘れちゃいけない。

なんと、「現代農業8月号」に竹肥料の記事が載りました。
私の名前も少し。


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いや、本当はウチの畑も載るはずだったのです。

取材の日には、
記者の人に言われるがままに、
第二農場の落花生と一緒にポーズを取ったのです。

「こんな畑で作物が実るのがおかしい・・。」
とか何とかひどいことを言われながら、
「いやぁ、これが竹パワーですよ。」、と謙遜していたんですがねぇ。


「現代農業」といえば、こっちで畑をやる知識人たちの愛読書。
都会にいる時には、そんな本、見たことも手にしたこともなかったのに、
こっちでは多くの人が定期購読しているのです。

現代農業に載るようになれば、ちょっと一人前です。
それは、某三大新聞に載るよりもステータスがあるかもしれません。

なんせ、ここの出版社の新入りは、
見本誌を片手に全国の農家を飛び込みで歩いて回るのが研修だと言われています。
営業兼記事ネタ探しの毎日。
素晴らしいですね。

別に回しもんじゃないですがね。
お近くに書店のある方は、ぜひ一度手にとって見てやってください。
214ページ。

2008年7月21日

晴れ、時々カミナリ。

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いやー、これは朝からカンカンの晴天に違いないと思っていました。
昨日も朝から33度を超える気温でしたが、今日もそれに迫る勢い。

「シーカヤック体験会」の日としては出来過ぎです。

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少し波はあったものの順調な滑り出し。

ところが2回目からその波が少しずつ高くなってきて、
波打ち際がちょっとザブーンな感じ。

マンツーマンの体制で何とか乗り越えたのでした。


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そうして、お昼ご飯を終えて、再開の3回目。
30分を超えたあたりから雲行きが怪しくなってきて、ドン・ガラガラガラ。
遠い沖では、天から海に稲妻が走る。


これはいけない。
体験会は急きょ中止。
講習も終わり、パドルを構えて、いざ海に漕ぎ出そうとしていた矢先に
中止になった方、ごめんなさい。
カミナリ様には勝てません。


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結局、そのまま4回目はキャンセルとなりました。残念。
予約して、こちらに向かっていただいていた方、ごめんなさい。
そういう訳でした。


こういうこともあるんですね。

2008年7月 4日

シーカヤックに乗ったことがありますか?

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梅雨が明ければカンカンの夏がやってきます。
夏といえば、やっぱり海。
海を満喫するなら、「シーカヤック」がイチオシですね。

ということで、
宅野では、今年も「シーカヤック体験会」を開催します。
宅野の砂浜は、ひそかに「鳴き砂」なんですよ。


ところで、シーカヤックに乗ったことがありますか?

ま、一人漕ぎのボートみたいなものですが、
ボートよりも安定しており、初心者でもスーイスイ進むので楽チン。
まるで、アメンボになったような気分が味わえます。


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まったく初めて、という方でも大丈夫。ご心配は要りません。
年齢も無制限。
専門のインストラクターがとても丁寧に教えてくれるので、
「ひっくり返ったらどうしよう?」なんて心配もありません。


小学生以上なら、一人一艇で乗ることができます。
ご希望があれば、二人乗りのカヤックもご用意しています。
30分もあれば、みんな海に漕ぎ出すことができます。


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シーカヤックに乗れば、海面がすぐ手の届くところにあり、
見える景色がまったく違います。
海の底まで透きとおって見えるきれいな海なので、
海中を泳ぐ魚の群れも見つけることができます。

それは、乗った人にしかわからない、何とも気持ちの良い体験です。


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~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
□■「宅野の海でシーカヤック体験会」■□

日  時:7月21日(祝) 午前・午後、計4回実施。
     午前の部/① 9:00~10:15 ②10:45~12:00
     午後の部/③13:00~14:15 ④14:45~16:00 
場  所:大田市仁摩町の宅野港
参加費:2,500円(大人) 1,500円(小学生以下)
定  員:各回10名(先着順)

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今なら、まだ空きがありますよ。
お申し込みはこちらまで。

■「宅野の海でシーカヤック体験会」
http://www.caferoman.com/move/2008_shedu/event08_0721.htm


カニややどかりもたくさんいます。


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2008年7月 3日

ずっと朝顔のことを思っていた

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今日、ふたつ咲いた。
朝顔は、細いつるをぐるぐるとからめて、毎日ぐんぐん背丈を伸ばす。
もう、明日にも咲こうとする、
くるんとねじったつぼみが素敵だ。


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今年はたくさん花を咲かせてくれるはず。

やがて花が枯れた後には、
小さな蜜柑みたいな、丸くて茶色い実ができる。
その中の、房に分かれた黒い種が素敵だ。

朝顔はいいなぁ。


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タイガーメロンが、
毎朝、見るたびにふくらんでいるんだ。
今で直径がだいたい8cm。
6日ほどでずいぶんと大きくなった。


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ルッコラは、アブラナ科の植物だから、
だいこんみたいな丸いふた葉を出す。

この間、茶色くなった種を取った。
そのこぼれ種があちらこちらで全部芽を出し始めた。
すごい発芽率だ。

ルッコラの種を食する。
ルッコラは種までぴりりとルッコラの味がする。

ポテトサラダにふりかけて食べたりすると、とてもおいしい。
これだけ芽が出ると、
貝割れだいこんみたいに食べられるかもしれない。

2008年7月 2日

憧れのショッピングモール

昨日は休みだったので、
山陰最大(いや、YouMeタウン最大?)といわれる、
出雲のショッピングモールの様子を見に出かけたのでした。
ま、いわゆる、おのぼりさんですね。


店舗の何倍もある駐車場の敷地。
勝手に動くエレベーターやエスカレーターが、
私には珍しく、懐かしかったりする(笑)。


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ピカピカの床とどこまでも明るい天井、汚れのない壁。
開店したばかりのまっさらな店舗で、
たくさんの新しい店長さんや、新しいアルバイトさんが働いているんだろう。

たくさんの衣服や雑貨や、
野菜やアイスクリームなどを積んだ納入業者の大型トラックが、
一日に何台も入って行っては出て行く。
毎日毎日、売れ筋商品や目玉商品や、
大きな肉の塊りや冷凍の野菜を運びこんでいるんだろう。


ここでは、飽くことのない経済原理が幅を利かせ、
市場調査やマーケティングという言葉がまことしやかに語られる。
現場では、
バイブルのような接客マニュアルにのっとって研修が繰り返される。

いらっしゃいませ。
いらっしゃいませ。
いらっしゃいませ。
いらっしゃいませ。

ありがとうございます。
ありがとうございます。
ありがとうございます。
ありがとうございます。


モールの3Fは映画館とゲームセンター。

複合店舗のモールにテナントで入っている映画館を
シネコン(シネマコンプレックス)というのだそうだ。
ここにはなんと10スクリーンもある。


映画館で映画を見るのは、何年ぶりだろう。
その映画館で映画を見た。


「奇跡のシンフォニー(August Rush)」というアメリカ映画。
単純だけど、おもしろかった。
お決まりのラストシーンに、ちょっと涙が出そうになった。


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世の中にはいろんなルールや決まりごとがあって、
逆らってはいけない社会の仕組みがあったり、
踏み外してはならない世間の常識というものがあったり、
そういう中で人は暮らしていくんだろうとみんな思っている。

それは、はっきりそうだと、誰かに言われたわけじゃないけれど、

「どう生きるかはあなたの自由だ」と、
いつも捨てゼリフのように言われたりするけれど、

それでも、僕たちはいつもいわれのないプレッシャーを感じて、
無言のトラップで幾重にも自分自身をがんじがらめにして。

ちっちゃな頃から、そうやって、
見えない殻の中に育てられていくのだと思う。


初めから自分のことを信じられる人はさいわいだ。


「頭がいっぱいの人。
要らないものをいっぱい集めた人。
はしっこで座り込んでいる人。

動けない人・・・。動こうとしない人」

バウさんは、そういう表現をする。

「そういう自分を、内面から初期化できる自分を実感できることが必要なんだ」


そのことに気づくために、人は生涯、寄り道をして歩く。


でも、いくら探し回っても無駄なんだ。

それは、自分の足元に転がっているものだから、
それはつまるところ、自分の足元にしか転がっていないものだから。


そのことに気づくために、人は生涯、寄り道をして歩く。