かつては甘夏みかんや種なしゆずで栄えた村が、
少子高齢化で栽培が放棄され、
木々には果実が実るがままになっているのです。
それを頑張って収穫しても、
今やJAには二束三文でしか買ってもらえない。
「何とかならないかなぁ。ものはいいんだけどなぁ」
といろんな人に話していたら、
数百kg単位で仕入れてもらえそうな話が舞い込んできた。
この間、農園の人に会って、
「甘夏の話、よかったねぇ」といったら、
「うれしいけど、ちょっとやれん」
と言う。
どうして、いい話なのになぁ、とその時は思ったけれど、
少し頭を冷やしてみると、
確かになぁ、と考え直したのでした。
そりゃ、買ってもらえるのはうれしいに違いないが、
だからといってそのために動ける人は少なく、
一人で何から何までやらないといけない現状はすぐには変わらない。
他の仕事は他の仕事で、今までどおり毎日こなしながら、
それでもお金をもらうからには、
みかん1個だって責任を持って出荷しなければならない。
そういうプレッシャーが新たに発生する。
それは、人を雇えばいいという問題でもないのだ。
お金が入ればいいでしょ、ということでもなく、
そのことでストレスがたまるなら、
結局何をしていることやらわからない。
従来の村おこしの成功例なら、
特産品を作って、うまく流通に乗せて、
量がさばけるようになって、雇用が生まれたら、めでたくゴール!
みたいなイメージがありますが、
そういうモデルパターンだけがウィナーだろうかと思うと、
それも何だか資本主義経済の市場原理に巻き込まれている
だけに過ぎない気がするのです。
都会の価値観に右へならえする小田舎ほどつまらないものはない。
考えてみれば、
全国の限界集落がすべて特産品を開発して、流通ベースにのせて、
村の経済を成り立たせる、なんてことは到底ありえないわけで、
限界集落には、もっと違うやり方があるのだろうと思います。
例えば、地域に埋もれていた財産が、
正当に評価される(わかる人にはちゃんとわかってもらえる)ようになって、
外からやってくる人に褒められたり、
褒められることで、自らも価値を見出すことができて、
何もないと思っていた村に、あらためて誇りが持てるようになる。
そんな状況が作り出されるなら、
そのあたりがゴールで充分なんじゃないか。
そう考えれば、ことさらブレイクする必要もない。
卸値をたたかれながら、ストレスを溜めて大量生産に励まなくてもいい。
あるがまま、少量、季節限定、売切れ御免。
それを大いばりで主張する方が、よっぽどかっこいいのじゃないか。
けれども都会の目でギャップを感じてもらうことは重要です。
地元に足を運んでもらえるなら、
地元でしか味わえないホンモノが都会より安く手に入ります。
だから、どんどん来てください。
けれど、都会の人がビジネスで求めるなら、それは高くつきますよ、
ぐらいのスタンスでいきたいものです。
つまり、経済の問題に貶めるのじゃなくて、
価値観の問題に引き上げればいいんだ。
そうすれば、限界集落だからといって卑屈になることはない。
そういう価値観の変換を模索していくスタイルが、たぶん新しい。
都会は未だに経済原理で田舎を買い叩けると思っている。
もう、それは許しちゃいかんのです。
限界集落になるようなところこそホンモノの宝庫。
昔からの古くて良いものは、「不便」の中で培われ、残されてきた。
だから代替不可能で貴重なのです。
みんな早くそのことに気づけばいいのだけれど。
きっと気づいた人から「都会を捨てる疎開」が始まりますよ。
もう、そんなに先の話じゃない。